願生寺の嫁ブログ
寺嫁日和
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お知らせ
2020.12.19
寒くなりましたね。
今日はちょっとしたお知らせなのですが、高輪ゲートウェイ駅に娘が幼稚園で制作した作品が展示してありますので、ご利用の際には是非ご覧ください。
駅の改札を入ってすぐのエレベーターのところに展示してあります。
先日幼稚園の先生とみんなで見に行って来ました。
作品も可愛かったですが、駅の窓を掃除していた窓拭きロボットを初めて見て、幼稚園のみんなもそちらにも興味津々でした。
窓拭きロボットとか、お掃除ロボットとか、ありがたいですよね。。
お寺では地道にやっています、皆様の大掃除はいかがですか?
満ち足りる
2020.12.03
大分前になりますが、とあるYahoo記事に対するコメントに、
「本当に満ち足りている人は、インスタなどで幸せアピールなどしないんだなと改めて思った」
というのがあり、「本当にそう!!」と共感してしまったその1秒後に、でも本当に満ち足りている人はYahooコメントなんて読まないんだろうな、と思ったまた1秒後に、本当に満ち足りている人はそもそもYahoo記事なんて読まないんだろうな…と思いました。
何せ私はYahoo記事もYahooコメントも大好き。手持ち無沙汰になるとつい読んでしまう有様です。そんな私は「本当に満ち足りている人」であるはずがありません。
そもそも「満ち足りる」ってとても難しい。
独身の頃は結婚すれば満ち足りて幸せに暮らせると思っていたけれど、結婚しても悩みは尽きず、満ち足りた状態とは程遠い日々でした。
結婚して2年近く子どもができなかったのですが、その時は「子どもができたら満ち足りて幸せになれる」と信じていました。
しかし、第一子出産後は人生で3本の指には入るんじゃないかと思うくらいの辛い日々でした。
今振り返るとあの頃の自分は異常だったと思うのですが、とにかくホルモンバランスが乱れに乱れ、気持ちの振れ幅が大きく、出産前なら何てことないことなのに些細なことで泣いたり怒ったり、制御不能な感情をどうすることもできませんでした。。
やり場のない感情を物に当たり、ドアをバーンと閉めたり廊下をドンドン大きな足音を立てて歩いたりして主人や義母に対してもものすごく態度が悪く、今だからあの頃の自分は異常だったと分かるのですが、当時は何でこんなに苦しいのか分からず、毎日地蔵堂に手を合わせ「今日こそは穏やかに過ごせますように」と祈る日々でした。
どんなに手を合わせても穏やかには過ごせませんでしたが。
こんな状況でしたので、「子どもが産まれたら満ち足りて幸せになれる」という私の思いは儚く散り散りになり、あんなに子どもが欲しかったのにどうしてこんなに苦しいんだろう。何で毎日楽しいと思えないんだろう。そんなことばかり考えていました。
そして話は戻りますが、なので「満ち足りる」って難しいなと思うのです。
第一子出産後のホルモンバランスが乱れに乱れていた頃、部屋の掃除すらまともにできず、それでなくても出産前から散らかっていた部屋が益々酷い状態になっていたそんな中で、この期に及んでまだ諦めず「何で満ち足りないんだろう、どうすれば満ち足りた状態になるんだろう」と考えていました。
そして散らかった部屋を改めて見回して、そもそもこんな部屋で生活しているから満ち足りないんじゃないのかなと思いました。
また、当時心が荒んでいたので食べても食べても満足できず、人生MAXの体重を更新し続けており体重計に乗る度にやるせない気持ちだったのですが、部屋が整っていて、自分の納得のいく体型で生きていくことができれば満ち足りるんじゃないのかなとふと思いました。
いえ、満ち足りた状態ではないにしても、部屋が整っていれば物がすぐなくなりその物を探すためにまた部屋をぐちゃぐちゃにし、歩く度に物を踏むこのストレスからは解放される。朝起きた時、帰宅した時、夜寝る時、部屋が整っていればもう少し気持ち良く毎日を過ごせるんじゃないかと思いました。
子どもがいる同じ状況でも部屋がすごく整っている友達が何人かいましたが、その友人達はみんな気持ち良く毎日を過ごしているように見えました。
体型も、痩せていれば良いというわけではないかもしれないけれど、鏡を見る度体重計に乗る度どうしようもなく落ち込むあの気持ちからは解放されると思いました。
部屋を整えたい、ダイエットをしたい、そうすればきっと、今よりはマシになるはずだと、第一子出産後散らかりまくった部屋で途方に暮れながら考えました。
その時、私はいつも、今、ここにないものに幸せを求め、「〇〇したら幸せになれる」という考え方だからいつまで経っても満ち足りないんじゃないのかなと思いました。今、ここにあるものをもっと大切に、感謝して生きることができれば、満ち足りた人生を送ることができるんじゃないのかなと思いました。
これは仏教でいう「煩悩」というものだそうです。煩悩は苦しみの原因で、これはお腹いっぱい甘い物を食べたい、仕事をしないで遊びたいというような、どちらかというとだらしないようなものだけでなく、もっと自分自身を成長させたいといったような、プラスになるようなものも含まれるそうです。
そして、その煩悩は喉の渇きのように何かが達成されてもすぐにやってくるものだといいます。だから、私のようにずっと満たされないことが連鎖的に生まれてくるようです。
「満ち足りる」とは、煩悩に支配されず達観することなのでしょう。
どうすれば達観できるかわかりませんが「○○したら幸せになれる」というような、今ないものに幸せを求めるのはもうやめて、部屋も自分自身も、今ここに存在するものなんだから、それをとりあえず磨いてみようと思いました。
と、言いつつ部屋の片付けはその後も一切進まず最近になってやっと時間がある時できるようになりました。ダイエットはとりあえずこの時から2年後くらいには開始できましたが、ある程度体重を落としたら今度は維持が大変だと気付かされる今日この頃…
でも、部屋を片付けている時やダイエットのため筋トレをしている時、満ち足りた状態ではありませんがとにかく無心になれるのが心地良いです。
そして、部屋が片付いたときや体重が減ったときの達成感はたまりません。
なので、とりあえず今は部屋の片付けとダイエットを粛々と頑張っていこうと思います。
筋力
2020.05.31
またまた更新が滞ってしまいました。
お久しぶりです。
コロナで落ち着かない状況でしたが、いかがお過ごしでしたか?
コロナやステイホームとは全く関係ない私事なのですが、第二子出産後突然ダイエットスイッチが入り、1年かけて自己最高体重から約10キロ落としました。
お檀家様の中にも私が痩せたことに気付いてくださる方が何人かいらっしゃり、「痩せたね」と言ってくださることを嬉しく感じていました。
今は最高に落ちた時から数キロは戻りましたが、激太りしないよう健康的な生活を心がけています。
本格的なダイエットなんてしたことがなかったので何をどうすれば良いか分からず、とりあえず夕食はサラダだけにすることにしたのですが、主人からのアドバイスで筋トレも取り入れることにしました。
それと同時に毎日柔軟もすることにしました。
筋トレと言ってもそもそもそれまでの人生で腹筋背筋ほぼしたことないので、私には腹筋も背筋も全くない状態でした。
なので、そんなにハードなことはしておらず、とりあえず毎日やることを目標に、ゆるやかに筋トレを開始しました。
そんな風にゆるゆるの筋トレに励んでいた頃、何気なくいきなりブリッジがしたくなり筋トレ後ブリッジをしたところ、当然ですができませんでした。
腕にもお腹にも全く力が入りませんので体が持ち上がるはずもなく…
思い返せば幼稚園の頃はブリッジができていましたが、それ以降人生でブリッジをする機会はなかったように思います。
そしてまた別のある日、子どもを公園で遊ばせていたのですがいきなり鉄棒で逆上がりをしてみたくなりしてみました。
これも当然のようにできませんでした。
それ以来、腹筋背筋に加えて出来る日はダンベルで腕のトレーニング、スクワットも取り入れました。
するとしばらくした頃、ブリッジができるようになり、さらにしばらくした頃逆上がりができるようになりました。
こんな経験から、「筋力」って大事だなと思うと同時に、ブリッジができるようになりたい、逆上がりができるようになりたいと思ってただ闇雲にそればかり練習していてもあまり意味がないということに気付きました。
何かができるようになりたいならそれに必要な筋肉をつけなければならず、毎日地道に筋トレすることは目的に対して遠回りしているように見えて、実は一番必要なことなのではないかなと思いました。
そしてこれは人生のあらゆる場面でも言えるのかなと思っています。
例えば肌荒れを治したいからといって高額な化粧品を使っても食生活や生活そのものが乱れていたらあまり意味がなかったな、とか、社会人の頃「もっと仕事ができるスーパー営業ウーマンになりたい!」とどんなに思っても人としての基本動作(言葉遣いや所作をきちんとする、落ち着いて行動する、レスポンスは早くするなど)がそもそもできていなかったら成果なんて上がるはずもなかったな…とか。
何かが上手くいかない、何かがどうしてもできないと思った時、そればかりを考えるのではなく、実は別のところを鍛えれば、改善すれば上手く行き始めることもあるのかなと思います。
そして、どうしてもその時分からなかったことが何年か経って「もしかしてあの時…」と思うこともあります。
現在の私の生活の中心は育児ですが、母としての筋力とは何なのか、考える日々です。
子どもの前では強く優しく穏やかでありたいものですが、どうしてもそうなりきれないことばかりです。
しかし、よくよく考えれば私は子どもにだけではなく、「強く優しく穏やかに」なんて全ての人に対してそんな風に接することはできていません。
社会人の頃会社の先輩から「相手に対する思いやりが足りない」と言われたことが何度もあります。
そう言えば4年目から退社時までお世話になったグループ長から私は「心がせまい」と言われました(笑)
母としての筋力を鍛えたいなら人としての筋力を鍛えなくてはですね。
誰に対しても思いやりを持って穏やかにはいきなりハードルが高過ぎるので、とりあえず主人に思いやりを持つことから始めたいと思います。
いつもの日々を大切に
2020.03.10
長女が幼稚園に入園したのは昨年4月。
言葉がやや遅く、集団行動や指示行動が苦手な娘の幼稚園入園は不安しかありませんでした。
それでも4月から、6月に風邪を引いて一週間休んだ以外は毎日登園しました。
運動会や音楽会など行事の度ごとに娘の成長を感じ泣きそうになる始末でした。
娘は何も特別なことはしておらずただ普通に参加しているだけなのですが、入園前の娘はその「普通」がとても難しかったのです。
また、行事の時ばかりではなく、毎朝手を繋いで幼稚園に行き、一人教室に入って行く姿に、お迎えのときに私のところへ走ってくる姿に、日々成長を感じていました。
2月も中旬を過ぎた頃、「あと1ヶ月で年少も終わりかぁ…」と1年を振り返ると、しみじみとなんて良い幼稚園生活だったんだろう。
残り1ヶ月で年少が終わってしまうのは寂しいなと思っていました。
しかし、残すところ1ヶ月弱というところで新型コロナの影響で休園となってしまいました。
事態が事態なので仕方ないですが、突然年少が終わってしまうことに対して全く心の準備ができておらず、寂しさで胸がいっぱいになってしまいました。
もしも2月29日が年少最後の日だと予め分かっていたなら、それまでの日々をもっと大切にしたのに。
お世話になった先生方にもっと感謝の気持ちを伝えたのに。
仲良くしてくれたママ達にもっと感謝の気持ちを伝えたのに。
年長のお友達に「ありがとう」と伝えたのに。
毎朝娘と歩く一歩一歩をもっと大切にしたのに…
と、後悔ばかりです。
なんの前触れもない突然の別れほど寂しいものはないんだなと改めて実感しました。
「諸行無常」とは、
この世に存在するすべての物事は同じ状態を保つことなく移り変わり、永久不変なものなどないということ
らしいですが、今回の幼稚園休園も諸行無常というのでしょう。
そして、何かが同じ状態を保つことなく移り変わった時、後悔が募るほど寂しいと感じるのでしょう。
その「何か」に愛着が強ければ強いほど移り変わって欲しくないと思ってしまうのですが永久不変でいることは不可能ですね。
だからこそ日々一瞬一瞬を大切にし、感謝の気持ちを持つべきなのでしょうね。
次に幼稚園に行く時娘は年中。
年長が終わる頃までは手を繋いでくれるかな?
小学生や中学生になったら、たとえ娘でも母親と手なんて繋がないですよね。
手を繋いで登園できる日々に感謝しながら、1日1日大切に過ごしていきたいです。
季節の行事を本気で楽しむ
2020.02.17
2月3日は節分でしたが、皆様豆まきはされましたか?
お寺では毎年節分はイワシの頭の飾りを門や玄関に飾って、夕方に節分法要をして、豆まきをしつつ戸締りをしています。
どちらかと言うと形式的に節分法要から豆まきをしていて、それらの行事を楽しむと言う感覚はあまりありませんでした。
と言うのも、私は季節の行事を本気で楽しむことがあまり得意ではないからです。
クリスマスやハロウィンなど、一年を通して季節の行事は色々とあります。
クリスマスパーティーなど、人から誘っていただければありがたく参加するのですが、自分から「クリスマスパーティーしよう!!」と企画してパーティーをとり仕切るようなことは本当に苦手です。
我が家には子どもがいますが、こんな母親なので、家族でクリスマスパーティーとかハロウィンパーティーとか、今まで一度もやったことがありません。。
本当は部屋を可愛く飾り付けしてご馳走を作って、何ならケーキまで可愛いのを作って…と、そんなことができるママに憧れるのですが、私はそんなこと一切できず、毎年何となく行事が終わっていきます。
先日の節分も、きっと何となく終わるはずだったのですが、たまたま子どもが通っている幼稚園のママに、「豆まきする?」と聞かれ、「うん。毎年お寺でやってる」と答えたところ、そのママがお子様と一緒に来てくれることになりました。
でも、毎年形式的にやっているだけなので、せっかく来てくれるのに全然つまらなかったらどうしようと思い、急遽私が鬼のお面をかぶり、鬼役になることにしました。
子ども達が豆まきを始めた直後に鬼のお面をかぶって「悪い子はいないか〜」と言いながら子ども達のところに行ったのですが、子ども達、誰が鬼なのか完全に分かっているので全く怖がることもなく、本気で私めがけて豆を投げてきます。
本気で逃げ回る鬼。本気で豆を投げながら追いかけて来る子ども。それが30分くらい続いたのですが、終わった後、なんて充実感!!
こんなに充実した節分は今までありませんでした。子ども達もよほど楽しかったのか、表情が生き生きしていました。
ただ何となく季節の行事をするのではなく、季節の行事を本気で楽しめば、こんなに楽しく充実するんだなと気付くことができました。
「ただ何となく」行事をしても、「ただ何となく」生きても、きっと楽しくないんですよね。
「ただ何となく」今日一日が終わっていき、「ただ何となく」日々が過ぎて行き、「ただ何となく」歳だけとっていき…
それはそれで私の生き方の根底に流れるリズムですが、そんな生き方にどうしようもない閉塞感を感じることが多々あることも事実です。
あまりにも毎日充実させるのは性格的に難しいですが、季節の行事などのイベントを本気で楽しみたいな。と思った今年の節分でした。