浄土宗 槃舟山易往院願生寺

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本堂

大火などによる損傷と復興を経て、現在の本堂となったのは1966(昭和41)年のことです。1955(昭和30)年より再建事業が進められ、檀信徒の協力もあり、完成しました。本尊の阿弥陀如来像は開山上人である証蓮社誠誉上人尋西永閑大和尚(しょうれんじゃじょうよしょうにんじんさいようかんだいかしょう)が、芸州(現広島県)より自ら請来した、聖徳太子作と申し伝えが残る由緒あるものと言われています。

本堂

地蔵堂

江戸時代には「江戸南方四十八所地蔵尊参(えどみなみのかたしじゅうはっしょじぞうそんまいり)」の二十一番の札所地蔵とされていました。像の特徴としては「船後光(ふなごこう)(舟形光背、ふながたこうはい)」といわれる、像後ろの後光が船を縦にしたような形になっている点が挙げられます。

地蔵堂前のにあるのは石羊です。牛供養塔があるのに何故羊と思うところですが、これは20世紀初め、ある檀家様に寄進していただいたものです。満州方面の工芸品と伝わっています。未年が近くなると、年賀状用の写真撮影の方も多く見られます。

地蔵堂

鐘楼

当山の梵鐘は1710(宝永7)年鋳造といわれています。しかし、第二次世界大戦中の1944(昭和19)年9月、供出することとなり、法要が行われました。戦後、未処理の梵鐘は戻るか払い下げが行われたはずでしたが、当山のものは行方不明となっておりました。それが戻ったのは1976(昭和51)年10月、払い下げられていた葛飾の正福寺の芳志によるものでした。

その後、鐘楼建立が計画され、1978(昭和53)年3月18日の春彼岸会に併せて落慶法要が執り行われています。現在は毎年大晦日に檀信徒様や近隣住民の皆様とともに除夜の鐘を厳修しております。

鐘楼

牛供養塔

元々は1738(元文3)年に、近隣の牛持ちの7家が慰霊のために造立したものでしたが、1806(文化3)年の大火で焼失してしまいました。それを、当時まだ残っていた4家が中心となって1828(文政11)年に再建しました。

正面の独特な南無阿弥陀仏の名号は、将軍から庶民にいたるまで「生仏」として尊敬を受けた江戸時代の高僧・明蓮社大僧正顕誉上人愚心祐天大和尚(みょうれんじゃだいそうじょうけんよしょうにんぐしんゆうてんだいかしょう)の書を写し取り、刻んだものといわれます。

江戸時代中にも複数回の改修が行われていますが、1914(大正3)年、1939(昭和14)年には近隣で牛屋を営んでいた「牛鉄」関係者が中心となり、改修が行われました。竿石や下段に名前が残るのはその関係者(牛鉄初代の小川鉄五郎、その弟の小山菊次郎、その下段には小山喜三郎の名が刻まれています)です。

現在は、港区の文化財に指定され、近隣の高輪大木戸跡や泉岳寺と併せてご見学の方も増えています。山門が閉まっていても脇の扉から入ってご見学いただけます。

牛供養塔

墓所

現在、およそ250基の墓所があります。新旧様々なものがあるため、形状もそれぞれです。各家墓所にお参りの方は安全面の都合上、必ず寺務所へお立ち寄りください。お線香をおつけ致します。

2019年現在、30箇所程度の空きがあります。

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墓所

客間

法事や葬儀等の際には控え室としてご利用いただいております。人数によっては中央の襖を取り払い、長細い1部屋としております。奥の床の間にある「玄々妙々(げんげんみょうみょう)」の掛け軸は、当山27世浄蓮社池誉上人悟道清阿祖雪荘然老和尚によるものです。

手前の部屋の絵は当山28世友人の丸山博巳(まるやまひろみ)氏の作品です。

客間

  • 二千七百六十人之霊供養塔

    二千七百六十人之霊供養塔

    牛供養塔と並んである供養塔です。1689(元禄2)年から1830(文政13)年までに無縁となった諸霊位を供養するため造立されたものです。正面には牛供養塔と同じく祐天上人の書が写し刻まれています。

  • 合葬塔

    合葬塔

    墓所上段にある大きな合同墓所です。正面の南無阿弥陀仏のお名号は当山27世浄蓮社池誉上人悟道清阿祖雪荘然老和尚(じょうれんじゃちよしょうにんごどうせいあそせつそうねんろうかしょう)の書を彫ったものです。

  • ペット墓所

    ペット墓所

    檀信徒様のご希望で、ペットの合同墓所を設けております。

    ペット供養・墓所

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