浄土宗 槃舟山易往院願生寺

願生寺の歴史

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17世紀初頭より始まる願生寺の歴史の概略です。

開山

関ヶ原の戦いが終わり、江戸幕府が開かれる前年での1602(慶長7)年、証蓮社誠譽上人尋西永閑大和尚(しょうれんじゃじょうよしょうにんじんさいようかんだいかしょう)により、この高輪の地に願生寺が開かれたといいます。(※元和年間(1619~24)、1629(寛永6)年開山説もあるようですが、史料の整合性などを見るに、1602年が有力と考えられます。)誠譽上人(じょうよしょうにん)は遙か芸州(現広島県)出身といわれ、彼の地で槃舟寺(はんじゅじ)を開いた後、当山のご本尊である阿弥陀如来像を自ら担いで江戸までやってきたと伝わる、強い志を持った人物だったそうです。

江戸時代の願生寺は、門前には東海道の往還、さらにその先には江戸湾を臨む、現代とはまた違った様相を持ちました。また、境内も現在よりやや広い1082坪と記録されています。現在はビルとマンションに挟まれた門前の通りも表門通りとされており、左折してすぐのところには表門がありました。

信仰を集めた牛供養塔や朝日地蔵

願生寺境内にある牛供養塔は、1738(元文3)年、近隣の牛車業者が私有する牛の供養のために建てたものとされます。付近にそのような業者が多かったのは、1634(寛永11)年の増上寺安国殿(ぞうじょうじあんこくでん)建立などに際し、多くの荷運び用の牛車が必要となり、呼び寄せたためです。工事終了後には褒美としてこの地域の居住権を与えて住まわせたため、「車町(くるまちょう)」や「牛町(うしまち)」といった呼び名がついたといいます。多いときには1000頭もの牛がいたといいます。

しかし、後述する1806(文化3)年の大火で焼失してしまったため、まだ残っていた業者によって再建されました。その後も信仰は続き、複数回の修復を受けています。1914(大正3)年、1939(昭和14)年、下部に名が彫られている「牛鉄」の関係者により修復が行われており、それに際し、現在のような多段型のものになっています。現在は残っていませんが、古くからの檀信徒の方の談では、20世紀中頃まではこうした牛車業者が付近に残っていたといいます。

また、現在も残る地蔵堂の地蔵尊はかつては朝日地蔵と呼ばれました。当時の地蔵堂は北東向きに建てられており、東に円形の窓があり、そこから差し込む朝日の中に浮かぶように見えたことに由来したそうです。かつては「江戸南方四十八所地蔵尊参(えどみなみのかたしじゅうはちしょじぞうそんまいり)」の二十一番に数えられました。現在も延命地蔵尊(えんめいじぞうそん)として、両脇の子育て地蔵尊とともに信仰を集めております。

かつての様子と大火・再建

(図 『小史』p69)

現在、鐘楼のある位置には石造りの閻魔像、唐銅の地蔵(地蔵堂のものとは別)、さらにその隣に現在とは違う鐘楼が並んでいたといいます。正面に本堂、向かって右手に庫裡の構造は変わっていないようです。

しかし、1719(享保4)年、1806(文化3)年、1845(弘化2)年と、大規模な火災に見舞われています。特に1806年のものは近隣での出火ということもあり、全焼規模の被害を受けたといいます。1845年のものも被害は甚大との記録があり、仏殿、閻魔堂、庫裡(くり)、門などの建築物や諸々の什器が焼失したといいます。
この際、本尊と過去帳は持ち出して難を逃れましたが、台座と後光は焼失しています。

その後、しばらく仮小屋のような状況が続きましたが、1848(嘉永元)年に再建工事が始まり、その翌年に本堂・庫裡が完成したといいます。

幕末と新時代

(図 『小史』p100)

開国により、諸外国との条約に基づき公使が江戸に滞在することになると、願生寺周辺の芝・高輪地域には複数の仮公使館が設営されました。その背景としては、江戸南端にあり外国人の上陸地に近かったこと、この付近の寺院には外国人の一団を収容しうる建物があったことなどが挙げられます。しかしながら、外国人に対する敵愾心を持つ浪士なども多く、1861(文久元)年には付近の東禅寺でイギリス公使・オールコックらを襲撃する事件が起こっています。このような風潮もあり、幕末の願生寺付近は穏やかとは言いがたい状況でした。

1868(明治元)年、神仏分離令が出されると、各地で廃仏毀釈の動きがありましたが、願生寺では特に払い下げや破壊のような記録は見られません。明治時代の願生寺の様子は図のように伝えられています。境内はおよそ770坪なので、当初よりやや狭まっています。また、明治時代の地券には墓地はおよそ332坪と記されています。

その後、東京は1923(大正12)年に関東大震災によって大規模な被害が出ておりますが、願生寺では被害記録などは残されていません。

池譽上人と戦時中の話

(図 供出法要 写真あり)

1937(昭和12)年、日本は日中戦争に突入する年ですが、浄蓮社池譽上人荘然大和尚(じょうれんじゃちよしょうにんそうねんだいかしょう)は願生寺の26世住職となりました。池譽上人は寺院の出身ではないものの、出家して僧侶を務めると同時に書家としても活動していた人物でした。この時期に本堂の修繕や石門の造営などが行われていますが、これはそこで得た私費を投じて行ったものといいます。

一方で、戦争は激化の一途をたどり、兵器用の金属不足から1941(昭和16)年金属類回収令が出され、いわゆる供出が行われるようになりました。願生寺も真鍮製の仏具を供出しましたが、1944(昭和19)年には本堂などの鉄柵や、大梵鐘(鐘楼の鐘)までも供出することとなりました。

その後、度重なる空襲で東京は大きな被害を受けましたが、願生寺が属する旧・芝区の焼失面積は比較的少なかったようです。しかし、全くの無傷ということはなく、軒先や側壁が焼けたほか、墓所付近の小屋の火災により一部の墓が崩れたと伝わります。

現代の願生寺

戦後、荒廃した本堂や庫裡の仮修理は施したものの、本格的な復興には時間を要しました。檀信徒の協力の上、現在の本堂が完成したのは1966(昭和41)年、池譽上人遷化の2年後でした。

本堂が完成した後も、戦時中に供出された梵鐘は処分が行われなかかったため戻されるはずでしたが、行方が不明となっていました。これは葛飾の正福寺に払い下げが行われており、鐘の銘文から由来がわかり、1976(昭和51)年願生寺に戻ることとなりました。2年後の1978(昭和53)年には鐘楼の落慶法要も執り行われ、現在のような境内になりました。

平成年間は2度にわたる屋根などの補修工事、合葬塔やペット合葬墓の建立、一部墓所の整地などが行われましたが、大規模な変化はなく、古くからの檀信徒の皆様にはなじみの深い境内の光景が続いています。

境内案内