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掲示板の言葉 vol.8 「夫鶏肋食之、則無所得、棄之則如可惜」
2025.02.18
書の腕前は上達しないものの、年始第一弾です。
今回は「夫れ鶏肋は之れを食らふも、則ち得る所無し、之れを棄つれば、則ち惜しむべきが如し。」ですが「鶏肋」だけにするとピンとくる方もいると思います。
エピソード的には『三国志』のイメージですが、出典は金印の記述でおなじみの『後漢書』からです。
言葉の意味はニワトリのあばらには少しながら肉がついているので捨てるのに忍びない、そこから「さして役に立たないが捨てるには惜しいもの」といったところです。
場面は、劉備と曹操の漢中争奪戦。
曹操は漢中からそのまま劉備の蜀へ攻め込もうとしましたが、要害の蜀は攻めにくく、かといって守るにも適していない状況。
そこで曹操が発した言葉がこの「鶏肋」です。
部下たちは意味が分からず悩んでいたところ、切れ者の楊修は上記のような意味であることを察し、撤退の準備を進めます。
しかし、元々楊修を危険視していた曹操は軍令違反として彼を処罰します。
些か理不尽な話ではありますが、有名なエピソードのひとつです。
今月この言葉をテーマとした理由は、まさに「鶏肋」を実感したためです。
ここ数年、本堂から客間から色々な場所を整理しています。
その結果、十夜放生会でも身につけた七条袈裟や本堂に展示している祖父の紫衣が出てきたり、スペースが出来て収納がしやすくなったりといった良い面が表れています。
しかし、その過程にはかなりの量の物を破棄しています。
時代と共に劣化して使い物にならなくなったものなどは仕方ないのですが、何故こんなものを保管していたのか、というようなものが相当量ありました。
先代夫妻は戦前の生まれなため、何かと物が捨てられないということをいっていました。
紙一枚も無駄にできない時代があったことは私もよくわかっています。
とはいえ、大量の包装紙や仕出し弁当の空箱までとっておけば虫も発生しますし、通常の生活スペースも圧迫してしまいます。
それらを片付けることで十分な収納部分が確保できたり、衛生面が向上したりと良い影響が出たのも事実です。
仕事柄、亡くなった方の遺品整理をしたという方から同じような話をよく聞きます。
同じ苦しい時代を経験し、同様の価値観を持っていることは想像できます。
そして、それは消費社会の現代に対して決して悪いことではないと思います。
しかし、現代はゴミ捨てにもお金と手間がかかる時代、大量の段ボールとその中身の処理も楽ではありません。
断捨離という言葉も一般的になってきました。
よく聞かれるのですが、これは仏教用語ではありません、同じインドでもヨガのほうにルーツがあるようです。
物への執着から離れるといいますが、この「執着」に関しては仏教でもいえることです。
仏教における執着は苦しみの元ともいわれます。
あらゆるものは変化し続けるにも関わらず、それを不変だと思い物事にこだわりしがみついてしまうことをいい、それから解き放たれた状態が涅槃です。
先の断捨離では「心がときめかないものは捨てる」などといいますが、かつて百貨店がステータスであった頃は、綺麗な包装紙はときめくものだったかもしれません。
しかし、それも管理しなければシミだらけになって劣化し、ゴミでしかなくなります。
それが大量に積み重なって生活空間を塞いでしまえば息苦しくなりますし、本当に必要なものを置くスペースもなくなります。
いつかは使う、といいつつも何段も積み重なった箱の一番下は引っぱり出せませんし、普通の人はそう何個も品物を包みません。
一見とっておけば役立ちそうなもののその出番はほとんどない、まさに鶏肋といったところです。
燃えるゴミ(に限りませんが)の日に玄関とゴミ捨て場を何往復もしながらそんなことを考えたわけです。
もちろん、物を大事にするのは結構なことです、古いものをメンテナンスして使い込むのも良い心がけでしょう。
しかし、それが悪い意味での物への執着となっては本末転倒。
大掃除の時期は大幅に過ぎましたが、微妙なものの処理に悩んだ際は思い浮かべていただければと思う次第です。