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【連載】檀家信徒の皆様へ近況報告と法話 第7回
2020.05.05
5月の連休、本来ならリゾートなどで世の中も賑わうところですが、何かとネガティブな話題が先行しています。
当山でも例年は施餓鬼の出欠をお持ちいただきつつや、帰省された方のお参りがあったりと、お檀家様とお話する機会も多くなるのですが、今年はそうもいきません。
毎朝のお勤めに併せ、平穏を祈るばかりです。
世間ではリモートワークが続き、中には逆に疲弊している方もいるようですが、私は副業のほう転職後はかれこれ在宅勤務10年目に入っております。
学校に出ていた頃は仕事のほうはさておき、スーツを着て(特に靴下を履いて)朝の電車に乗るのが嫌で仕方なかったので、非常に良い環境を得たなと思ったものです。
聞くところによると、わざわざスーツに着替えてPCに向かう方も多いようで、これはメリットというか良さを打ち消しているような気もします。
価値観の相違などはありますが、個人的にはリラックスした状態で仕事に臨めるほうが生産性も大幅に向上するので、いかに快適かを突き詰めたほうがいいのかなとも思うところです。
シエスタの風習がある国も存在しますが、妙にきっちりと勤怠管理をするより、ある程度の自主性に任せたほうがいいのではないかと感じております。
その辺りは個人の特性などもあるので難しいところのような気もしますが、あまり気張らないのが何かと長く続ける秘訣とも思います。
「ちゃんとしたモノが出るなら5分前まで寝てても問題ない」というのは上司の言葉ですが、私は遠慮無く自分のペースで調整させてもらっています。
もちろん、手を抜くわけではなくベストを尽くしますが、このスタンスは個人的には非常に快適で、良い流れを作れています。
なので、リモートワークで飽き気味の方も、環境の利点を活かし、ストレスが少なくなる手法をとられることをお勧めいたします。
そんなわけで今月の法話です。
「応病与薬」という四字熟語をご存じでしょうか。
字面で意味は想像できそうですが、これは医療関連の用語ではなく、実は仏教に由来する言葉です。
実際の意味は「医者が病気の程度や種類によって、適切な薬を処方するように、説法を聞く人の素養な現段階での能力によって言葉などを使い分けるたとえ」になります。
これは後世になって生まれたものではなく、お釈迦様がたびたび説法の際に使った形跡が見られます。
このように相手によってわかるようにたとえた結果、経典によっては少々の矛盾のようなものが出ている場合もありますが、それは相手の程度によってわかるように説明した結果の方便とされています。
浄土宗の開祖の法然上人も著作(とされるもの)の中で、罪が重いものでも念仏による往生を疑わないようにというたとえで、病人に薬を与えることを使っています。
何もこの言葉は仏教に限ったことではないというのは当然ですね。
教員時代も、当然ながら中学生と高校生、質問にくれば個人の興味や感じ方に応じて切り口を変えたものです。
剣道を教えるのでも経験者と初心者、運動神経の良し悪し、個人の動きの癖などで、どこにプライオリティーを置くかは考えます。
どんなことであってもこの「応病与薬」の言葉は当てはまるといえるでしょう。
なので、ぜひこの時期、自分と向き合う時間も長いと思いますので、自身にどんな特性があるのかなど適切な「与薬」ができるよう、振り返っていただければと思います。
また、時節柄字義通りの意味も軽視することはできません。
現在蔓延しているコロナウィルスは未知のウィルスなので、専門家がいない状況です。
山中伸弥先生も情報発信していますが、こんな高名な学者でもコメントする際「専門外ですが」とつけています、実際検疫学は専門ではないようですが。
実際に罹患しても対処療法しかない、再発や後遺症についてもよくわからない、報道も不安を煽る面が多く、あまりあてになりません。
こんな状況下で「応病与薬」のたとえを使っていたお釈迦様なら、おそらく「検疫学や細菌学の人がいうように手洗いうがいを徹底しなさい」というでしょう。
法然上人も「無理してでも念仏しろとはいいません、世の中が落ち着いて心配が無くなってからしっかりやりなさい」というでしょう。
中には外でのお仕事を休めない方もいらっしゃるとは思います、そうした方は十分にご注意を払った上で頑張っていただくしかありませんが、そうでない方は無理をされる必要はないと思います。
施餓鬼の返信も集まる中、「欠席で申し訳ありません」とある方もいらっしゃいますが、決して気に病むようなことではありません。
本音を言えば皆様とお勤めできないのは残念なのですが、現在はそのような状況にはありません。
どうぞ皆様、ご自身の健康と安全第一でお過ごし下さい、そして、沈静化の後にお元気な姿でお会いできることを楽しみにしております。